楽しかった連休を終えると翌日には、東北道をひた走っていました。北に上がると、山はまだ新緑です。高いところには白い残雪も残っており、田植えの準備に掛かれという知らせですね。
山道を登りながらこの一週間の事を振り返っていました。いつも定期的に訪れていただく方々が中心でしたが、それでも、二年ぶり、三年ぶりの方もおられました。二年前にはTW3+80の組み合わせは無かったのですね。開発が成功して一年間聴いてきましたが、自分のなかでは昔からこの音を聴いてきたような感覚です。
形状が必然的に交差法であるGRFの前に飛び出てくる音も、床置き平行法で鳴らしていたT4の後方に広がる音も、茅野のQuadESL57の繊細だけど、ひたひたと押し寄せてくる低音のエネルギーも、もちろん61センチのウーファーを楽々とならすHartleyの深々とした低音も、振り返ってみれば、皆同じ音の傾向だと思うのです。それが結集して、低域のエネルギーを楽々と再生する三次元の音となってきたからです。
部屋のどこから聴いても、鳴っている音の位置は変わらない、そのことがどれほど難しいことかは、50年以上掛かってきた歴史を振り返ってみればわかるからです。しかし、いったん、その音場が出現すると、些細なオーディオ的な試行錯誤は気になら無くなります。
今年の連休のレコード演奏会は、オーディオファンの集まりでは無くレコードファンの集いになりました。40年、50年前の演奏会場が目の前に表れてくるからです。一流の歌手たちが、まだ元気で若い時の歌唱力のすごさを感じることが出来ました。元気はつらつな演奏家たちの切れの良い音が目の前に展開します。レコード(記録)という意味がわかりますね。
人間の耳(マイク)は二つしかありません。鼓膜の間隔10センチぐらいのわずかな距離の差を感知して三次元の空間を聴いているのです。その精緻で微妙な仕組みには恐れを感じるほどです。その二つの耳(マイク)で聞いた音を、脳が本能と経験値で判断しているのです。目も耳も、経験を通じて学習していきます。コンサートホールの生の音を経験していないと、再生するときの基準が出来ません。レコードの音だけで音楽を聴いてきたレコードマニアが、実際の演奏会に行くと、音が聞こえないとか音が悪いとか言われることがあるのですが、これは主客転倒ですね。演奏会場で経験を重ねて行かれれば適正な音量とか、バランスが見えてくると思うのです。
私のオーディオの趣味は、あくまでも音楽を楽しむためであり、オーディオのためのオーディオではありません。音が良くなる優先順に進めていくことが大切です。オーディオはどこを触っても音は変わります。条件を決めて些細なところばかり触っていると確かに音は変わりますが、井の中の蛙になる恐れがあります。与えられた環境でまず一番大胆な変更を行って見ることも大事です。家族と共有の場所では、自ずと制約が出てきます。でも、その制約はけっして宿命ではありません。音楽を聴く専用の部屋はどんなに小さくとも大切です。子供が独立して行くと、自由に出来る空間も増えていきます。音楽は空気の振動です。空間とどう向き合うかそこのオーディオの秘密と真実が隠されています。
東北の山は深いです。三時間近く掛けてようやく山越えできる道を走っていると、高度に順応せず、飛行機に乗っているように下りでは、圧力が高まり耳が遠くなっていきます。耳抜きをしてようやく低音が戻ってくるのですが、風邪を引いているとそのあたりの空気抜きがうまくいかず、耳のバランスが悪いままになります。高度を戻して、はなと耳のあいだに空気を通すと、鼓膜の動きが元に戻るのです。それを何回か繰り返して東北道をひた走りに走ってきました。帰り道も、寄るところがありますから、まだまだ走り続けなければなりません。音楽を聴いているかどこかを移動しているかの人生だとつくづくと思いました。
山道を登りながらこの一週間の事を振り返っていました。いつも定期的に訪れていただく方々が中心でしたが、それでも、二年ぶり、三年ぶりの方もおられました。二年前にはTW3+80の組み合わせは無かったのですね。開発が成功して一年間聴いてきましたが、自分のなかでは昔からこの音を聴いてきたような感覚です。
形状が必然的に交差法であるGRFの前に飛び出てくる音も、床置き平行法で鳴らしていたT4の後方に広がる音も、茅野のQuadESL57の繊細だけど、ひたひたと押し寄せてくる低音のエネルギーも、もちろん61センチのウーファーを楽々とならすHartleyの深々とした低音も、振り返ってみれば、皆同じ音の傾向だと思うのです。それが結集して、低域のエネルギーを楽々と再生する三次元の音となってきたからです。
部屋のどこから聴いても、鳴っている音の位置は変わらない、そのことがどれほど難しいことかは、50年以上掛かってきた歴史を振り返ってみればわかるからです。しかし、いったん、その音場が出現すると、些細なオーディオ的な試行錯誤は気になら無くなります。
今年の連休のレコード演奏会は、オーディオファンの集まりでは無くレコードファンの集いになりました。40年、50年前の演奏会場が目の前に表れてくるからです。一流の歌手たちが、まだ元気で若い時の歌唱力のすごさを感じることが出来ました。元気はつらつな演奏家たちの切れの良い音が目の前に展開します。レコード(記録)という意味がわかりますね。
人間の耳(マイク)は二つしかありません。鼓膜の間隔10センチぐらいのわずかな距離の差を感知して三次元の空間を聴いているのです。その精緻で微妙な仕組みには恐れを感じるほどです。その二つの耳(マイク)で聞いた音を、脳が本能と経験値で判断しているのです。目も耳も、経験を通じて学習していきます。コンサートホールの生の音を経験していないと、再生するときの基準が出来ません。レコードの音だけで音楽を聴いてきたレコードマニアが、実際の演奏会に行くと、音が聞こえないとか音が悪いとか言われることがあるのですが、これは主客転倒ですね。演奏会場で経験を重ねて行かれれば適正な音量とか、バランスが見えてくると思うのです。
私のオーディオの趣味は、あくまでも音楽を楽しむためであり、オーディオのためのオーディオではありません。音が良くなる優先順に進めていくことが大切です。オーディオはどこを触っても音は変わります。条件を決めて些細なところばかり触っていると確かに音は変わりますが、井の中の蛙になる恐れがあります。与えられた環境でまず一番大胆な変更を行って見ることも大事です。家族と共有の場所では、自ずと制約が出てきます。でも、その制約はけっして宿命ではありません。音楽を聴く専用の部屋はどんなに小さくとも大切です。子供が独立して行くと、自由に出来る空間も増えていきます。音楽は空気の振動です。空間とどう向き合うかそこのオーディオの秘密と真実が隠されています。
東北の山は深いです。三時間近く掛けてようやく山越えできる道を走っていると、高度に順応せず、飛行機に乗っているように下りでは、圧力が高まり耳が遠くなっていきます。耳抜きをしてようやく低音が戻ってくるのですが、風邪を引いているとそのあたりの空気抜きがうまくいかず、耳のバランスが悪いままになります。高度を戻して、はなと耳のあいだに空気を通すと、鼓膜の動きが元に戻るのです。それを何回か繰り返して東北道をひた走りに走ってきました。帰り道も、寄るところがありますから、まだまだ走り続けなければなりません。音楽を聴いているかどこかを移動しているかの人生だとつくづくと思いました。