東京・春・音楽祭の一環で、今回は石橋メモリアルホールに舞台を移してのメルニコフのピアノ演奏会にBellwoodさんからのお誘いでいけました。リヒテルの弟子だったメルニコフの演奏会は、そのリヒテルに捧ぐ演奏会として、ショスタコーヴィッチとドビュッシーとショパンの作曲した《24の前奏曲》シリーズを三夜開きます。今晩の演奏会は、その第二夜で上野学園が所有する1910年製の銘器プレイエルを使用して、1910年頃に作曲されたドビュッシーの名曲がどの様な響きを出すのかという、極めてマニアックな試みでもあります。
メルニコフは、イザベル・ファウストと組んでベートーヴェンのヴァイオリンソナタを昨年公演しています。スリリングな演奏会だったそうです。また、ショスタコーヴィッチの24の前奏曲も大変評判になりました。私も彼のCDは殆ど持っているほどの好きな演奏家です。知的で、確信的な演奏を行っています。楽器にもこだわり、自身10台ほどのクラシックピアノを収集していることでも知られています。そんな彼が、上野学園の所有する1910年製の銘器プレイエルを弾いて、同じ年に出来たドビュッシーの前奏曲全曲に挑むというまたとないプログラムで、先日のレオンスカヤとは違った意味の知的興奮も持って演奏会に行きました。
上野の石橋メモリアルホールでは、何時もBellwoodさんと来ています。田部京子さんのモーツァルトの協奏曲も、曽根麻矢子さんのチェンバロのリサイタルの時もそうですが、このホールにくるときは何時も三月の桜の前でした。今晩は、上野の桜は満開で公園口の方は、大変な人手でしょう。老人力が感染したBellwoodさんも、今日は肝心なチケットを家に忘れて取りに行かれたそうです。老人力がましてくるといろいろと大変です(笑)。
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会場には、美しいプレイエルのピアノが輝いています。美術品のような美しさです。この楽器から一体どの様な音がするのでしょうか?ピアノフォルテ的な響きも残っているのでしょうか?いやいや、ドビュッシーがこのピアノが出現したときに今夜の前奏曲を作曲したのですから、やはりすごい音がするのではと、演奏前から期待が高まります。どこか雰囲気が家のデコラに似ていると思いました。
前より恰幅がよくなったメルニコフが現れました。大きくなってきたお腹を隠すように止められたボタンがはち切れそうです。おもったより大きな人で、CDの写真のような神経質そうな感じは後退していました。しかし、座るポジションの微妙な調整等演奏前の神経の使い方が伝わってきます。
静かに第一曲が始まりました。優しい音がするピアノです。弱音がとてもきれい。その弱音を活かすように微妙なタッチを変えて、引き分けていくメルニコフの指使いの繊細なこと。ドビュッシー特有の低い弦がなると、さすがに現代ピアノはここから始まったんだと言う実感がします。だからといって音は重くはならないのです。演奏が始まったときは、その美しい音色に心を奪われて、きわめてオーディオ的な聴き方をしていました。打楽器のピアノの弦に直接手を触れて、弦の振動を微妙にコントロールしている感じの演奏に驚きました。ギターのハーモニクス奏法見たくオクターブ上の音がきこえてきます。どの様にコントロールしているのでしょう。
ペダルとハンマーの微妙な操作で、繊細で普段聴くことが出来ない音がちりばめられ、ピアノの奏法の美術館みたいな演奏に引き込まれていきます。一音一音を聞きながら、響きとハーモニーを確かめながら手探りで冒険をしている気さえしてきます。十二音階的な響きは、その後のサティなどに影響を与えた元の曲だと言う事を思い出させます。その中にも見え隠れする、東洋的な響きの音階配列も感じられ、中性的なニュアンスも出ています。かすかに帆に風を受けゆったりと進んでいく内海の船のようです。
風が吹いてきたようです。葉を揺らし嵐が近づいて来ます。途切れ途切れに加工して旋律が浮かび上がる演奏の妙に目を奪われました。交差する手が優しいのです。「夜の空気の中に漂う香水の香りと音」という表題をつけられた曲は、この柔らかな音が、あなたの装置から出ますか?と作曲家と演奏者に問われたような気もしました。最後の低音がこのピアノは本当に美しい。
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撮影:青柳聡 提供:東京・春・音楽祭
「アナカプリの丘」で表現される交差する響きと左手のだめ押しするような低音の響きと右手の切れ味が出てこなければと挑戦されました。この楽器は、現代のスタインウェイとかベーゼンドルファーのような大きな音はしません。籠もるような音も皆無です。弦の響きをきれいに聴かせる用には作られていますが、一旦その音を吸収して楽器全体に行き渡らせるような、ある意味鈍重な音が一切しないのです。この曲にピッタリの楽器だと思いました。きれいに響くのだけど重い胴間声にはならない、本来のテノール歌手みたいな楽器です。だからといって低音が出ないわけではなく、しっかりとした弦の響きもきこえてきます。
その音を確かめるように、ピアノに響きを尋ねるようにメルニコフの演奏は、ゆっくりと進んでいきます。このテンポは、サンソン・フランソワのテンポ設定に似ているのかもと思ったりしました。思いもしない地点に打ち込まれていく高段者の妙手のように、五線譜の上に書かれているのはたんなる音符ではなく、座標軸の様な、碁の盤面のような抽象的だけど、きわめて数理学的な響きもきこえてくるのです。それが「雪の上の足跡」なのでしょうか。
第七曲の「西風の見たものは」は、冒頭から嵐が近づいてきます。オクターブ音の上昇下降和音が続いて嵐の中に巻き込まれます。ジェットコースターで、振り回されるような下降和音の急降下に驚き、おもわず手を握り締めてしますような展開に息をのみます。
そして有名な「亜麻色の髪の乙女」です。前曲の緊張感が無くなり、ゆったりと上空を見るかのように高いところから音が降りてくるようにメルニコフは演奏していきます。けっしてセンチメンタルなところはありません。ニュートラルで清潔な景色が拡がっていきます。最後の柔らかな音!
途絶えたセレナードは、どこかで聴いたメロディーが顔を出します。スペインの踊りのような、だからといってカルメンには出てくるような、ジャズの演奏にもよく聴くラパパ・パーンという繰り返しがきこえてくるのです。
第十曲の「沈める寺」はオーディオファンにも有名な曲でしょう。沈み込むような低い音と、水音をも意起こさせる高音の輝く様な響き、クライマックスからの下降旋律は、展覧会の絵の《キエフの大門》を思い起こさせます。その低い音が、重くならず、低い音でなると言った表現でお解りになるでしょうか。この音がプレイエルの音なのですね。10曲目と書きましたが、聴いてたときは、九曲目に出て来たような感じもしました。軽妙なパックの踊りから、第一巻の難曲、ミンストレルが始まりました。メルニコフはいとも簡単に弾いて、さっそうと第一部を終えました。
隣で聴いていたBellwoodさんも感心しきりな様子です。早速、気付け薬を飲みに行き、泡のあるタイプにしました。このホールは、営利目的で無い所為かワインの量もたっぷりで、値段もすべて500円という良心的な価格で、飲み助の私達には、嬉しいホールです(爆)。
開口一番!驚きを二人で口にしました。何しろ音が良い!繊細な音で、いままで聴いたことが無いような多彩な響きがきこえてくる。楽器の質がまったく違うし、その違いをメルニコフの演奏が際出せている。と異口同音で驚きを話し始めました。普通のピアノ演奏会ではあり得ないほどの高みに達しています。この演奏会を逃した方は気の毒とか言いようがないとまで二人で興奮して話しました。Bellwoodさんはこの演奏会に狙いをさだめ、早くから良い席を確保したと自慢げですが、その通りなので、ただただ、感謝ですね(爆)。
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泡入りワインで酔っ払わないように、気をつけて第二部へと戻りました。前の席の大学教授風の年配の方が、おおきなピアノスコアを持って来ていてそれを悠然とめくりながら聴かれているのをみてBellwoodさんは、どうせチケットを取りに戻ったのだから、スコアを持ってくるのだったと後悔しきりです。でもあの大きなスコアなら見やすいけど、ポケットブックのスコアでは、強いメガネが必要ですね(苦笑)。
第二部最初のきれいなアルペジオが続きますが、少しずつ右手の音が複雑に暗くなっていきます。最後の最低音と最高音の音が不気味な感じがします。そのダブルオクターブの音を聞きながら、どの様に調律して、どの様に演奏したらこの様な不思議に静かな音が出るのだろうと考え始めました。同時に、ドビュッシーがこの新しい時代のピアノの音を聞いたから、この様な音楽を書き始めたのか、鶏と卵みたいな事も考えたのです。時代の同一性と言うことがどのくらい影響し合っているのか、その時代でしか生まれない個別の個性としれが積み重なって出来ていく歴史の必然性等も考えていました。
第二部では第一部で詳細に聴いていた聴き方を離れて音の流れの中に身を任せていきました。いつもは批判的に見ている演奏会で、この様に安心して音に身を委ねられることは余りありません。第三曲の「ヴィーノの門」のファリアみたいなスペイン的な響き、グリザンドのきれいなこと。素早いトリルが支配する第四曲。「亜麻色の乙女」を思い出させる第五曲。月の光を思い出させる第七曲。英国国歌を遊んでいる第九曲。第二集の曲は、遊びと実験に満ちています。技術的にも難しい「交差する3度」などは、練習曲の範囲なのでしょうか?そして、遂に最終曲の「花火」に火が付きます。
最初は、ネズミ花火見たくどうかせんがくるくると回っていたのが、どんどん大きく華やかになっていきます。この最大のクライマックスになっても、音が曇らない、見通しの良いまま花火は大きくなっていくのです。最後は、メルニコフの独壇場になって会場の聴衆を引っ張っていき、突然花火は終わりました。すくっと立つ、メルニコフのやり遂げた満足な顔がとても印象的でした。
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拍手にお答えして、演奏されたアンコールは、一曲目はすぐにプロコイエフだと解りましたが、二曲目が解らず、ラフマニノフだそうです。これはBellwoodさんが当てられていました。さすがですね。問題は第三曲目、全く解らず、案内板を見たら、なんとブラームスの幻想曲からでした。意表を突かれましたね。メルニコフの心のなかで共通性があるのでしょう。しずかに演奏会が終わりました。
そのあと、知的興奮が冷めやらない二人は、演奏の細部にわたって何時までも話が続いたのでした。久しぶりに聴衆も燃えた演奏会になりました。これを聞き逃した方は、残念でしたとかいいようがありませんね。参加できて本当に良かったです。