例えば、先々週のミューザ川崎でのバイエルン放送響の響き、同じ場所で聴いた、去年のコンセルトヘボウ、ベルリンフィル、ウィーンフィルの音。勿論、本拠地での彼らの演奏は、オリンピックのアスリートに例えれば、オリンピックのファイナルみたいな、人知を越えて神々の領域の素晴らしさを聴くことが出来ます。その圧倒的なサウンドと隅々まで気配りされた演奏を聴くと、これは到底、家庭のハイファイ装置では、得られないと思ってしまいます。
そこで諦めるか、いや、何とかしてこの感動を自分の部屋でも再現したいと願うかで、道ははっきりと分かれてくるのだともいます。線路が別れると、みるみるうちに別々の方向にどんどん離れていくように、その分岐点からの方向に、相当なエネルギーを費やしていかないと、すぐに道を失ってしまうのです。
川崎のホールが、何故、世界中の演奏家から絶賛され、宝石箱とまで言われるのか想像されたことはありますか?私感では、ウィーンのムジークフェラインとアムステルダムのコンセルトヘボウだけが、固有の響きを持ち、その音楽性に大きな影響を与えていますが、例えば、ベルリンのフィルハーモニーなら、ミューザの方が良い音がすると確信しています。外交辞令ではなく、ラトルもヤンソンスも川崎に来る度に、聴衆に直に話しています。
しかし、同じホールを使っても、フランチャイズの東京交響楽団の演奏会では、同じ様な響きを聴いたことがありません。オリンピックのファイナルと国体の決勝戦ぐらい、内容が違いすぎます。残された時間を有効に使うためには、それらの一流のアスリートの演奏会だけに絞る必要があります。
サントリーホールとミューザ川崎の差は、容積にあると思います。サントリーホールでは、世界一流のオーケストラが来ると、音が飽和することがあります。またピアニシモが聞こえにくい事もあります。ミューザはそのピアニシモの表現力とどんなに大きな音を出しても、音が飽和しません。容積と非対称の構造が音に効いているのでしょう。勿論聴かれる場所に依っても音が違いますが、川崎の場合はどこの位置でも、それなりに楽しめるのが嬉しいですね。でも良い音がするのは一流の演奏家だけです。その意味では、試金石的な意味合いもあります。
仕事の関係もあり、一番多く訪れている外国のコンサートホールは、コンセルトヘボウです。毎年の様に訪れています。その、同じホールでも、コンセルトヘボウオーケストラ以外では、感動した試しがありません。うるさかったり、音が荒かったり、バランスが合わないまま、終わったこともあります。また、コンセルトヘボウでも、病気の代役の指揮者では、全く、違う音がするのが不思議なくらいです。
そうなると、良い演奏に巡り会えるのは、奇跡と言ってもいいぐらいの確率なのでしょう。いまは思い切れば、すぐに外国に飛んでいける世の中です。一昨年は、二ヶ月に一度はスキポール空港の長い通路を歩いていました。しかし、コンセルトヘボウの演奏会は、一月に一回あれば良い方です。定期会員で券はほとんど完売しています。それでも、何とか見付け出して聴いています。ヤンソンスの演奏は、ピアニシモの美とも言えましょう。消えいくような持続音がホールの隅々まで音楽を届けていくのです。
そのような、空間の再現と細部の描写、聴感上のダイナミックレンジの変化の仕方、低域の再現性、この様な条件が揃ってくると、実演でしか聴けないと思っていた表現が、再生装置から出て来ます。勿論、一筋縄ではいきません。お金を水道の蛇口をひねるように出てくる物でもありません。演奏家と同じぐらいの配慮をして、何回もの練習を行い、微妙な調整を行いながら、理想の音に近づけていく。これが、再生装置の喜びです。
私自身、何十年も掛かってやってきました。良い音が出始めたのは、この数年のことです。それでもなお、日々、音は更新してきます。終わりのない旅路です。今は4年間眠らしてきたコンシーケンスの再生に、力を注いでいます。昨年の川崎のあとには、まだ思いもよりませんでした。力不足を感じていたからです。今年は、何とか行きそうだとの予感がありました。
そしてどうやら、その音が表れてきたようです。人にお聴かせする音ではなく、自分のためにならす音楽です。上手く行けば行くほど、孤独な道を一人行かなくてはなりません。今回はどこまで行くか、最後まで頑張ってみようと思います。
出雲に神様が集まる神無月は、日本中の神様がいなくなります。もう、師走ですが、今晩の和室の神様は、出雲にご出張のようです。
そこで諦めるか、いや、何とかしてこの感動を自分の部屋でも再現したいと願うかで、道ははっきりと分かれてくるのだともいます。線路が別れると、みるみるうちに別々の方向にどんどん離れていくように、その分岐点からの方向に、相当なエネルギーを費やしていかないと、すぐに道を失ってしまうのです。
川崎のホールが、何故、世界中の演奏家から絶賛され、宝石箱とまで言われるのか想像されたことはありますか?私感では、ウィーンのムジークフェラインとアムステルダムのコンセルトヘボウだけが、固有の響きを持ち、その音楽性に大きな影響を与えていますが、例えば、ベルリンのフィルハーモニーなら、ミューザの方が良い音がすると確信しています。外交辞令ではなく、ラトルもヤンソンスも川崎に来る度に、聴衆に直に話しています。
しかし、同じホールを使っても、フランチャイズの東京交響楽団の演奏会では、同じ様な響きを聴いたことがありません。オリンピックのファイナルと国体の決勝戦ぐらい、内容が違いすぎます。残された時間を有効に使うためには、それらの一流のアスリートの演奏会だけに絞る必要があります。
サントリーホールとミューザ川崎の差は、容積にあると思います。サントリーホールでは、世界一流のオーケストラが来ると、音が飽和することがあります。またピアニシモが聞こえにくい事もあります。ミューザはそのピアニシモの表現力とどんなに大きな音を出しても、音が飽和しません。容積と非対称の構造が音に効いているのでしょう。勿論聴かれる場所に依っても音が違いますが、川崎の場合はどこの位置でも、それなりに楽しめるのが嬉しいですね。でも良い音がするのは一流の演奏家だけです。その意味では、試金石的な意味合いもあります。
仕事の関係もあり、一番多く訪れている外国のコンサートホールは、コンセルトヘボウです。毎年の様に訪れています。その、同じホールでも、コンセルトヘボウオーケストラ以外では、感動した試しがありません。うるさかったり、音が荒かったり、バランスが合わないまま、終わったこともあります。また、コンセルトヘボウでも、病気の代役の指揮者では、全く、違う音がするのが不思議なくらいです。
そうなると、良い演奏に巡り会えるのは、奇跡と言ってもいいぐらいの確率なのでしょう。いまは思い切れば、すぐに外国に飛んでいける世の中です。一昨年は、二ヶ月に一度はスキポール空港の長い通路を歩いていました。しかし、コンセルトヘボウの演奏会は、一月に一回あれば良い方です。定期会員で券はほとんど完売しています。それでも、何とか見付け出して聴いています。ヤンソンスの演奏は、ピアニシモの美とも言えましょう。消えいくような持続音がホールの隅々まで音楽を届けていくのです。
そのような、空間の再現と細部の描写、聴感上のダイナミックレンジの変化の仕方、低域の再現性、この様な条件が揃ってくると、実演でしか聴けないと思っていた表現が、再生装置から出て来ます。勿論、一筋縄ではいきません。お金を水道の蛇口をひねるように出てくる物でもありません。演奏家と同じぐらいの配慮をして、何回もの練習を行い、微妙な調整を行いながら、理想の音に近づけていく。これが、再生装置の喜びです。
私自身、何十年も掛かってやってきました。良い音が出始めたのは、この数年のことです。それでもなお、日々、音は更新してきます。終わりのない旅路です。今は4年間眠らしてきたコンシーケンスの再生に、力を注いでいます。昨年の川崎のあとには、まだ思いもよりませんでした。力不足を感じていたからです。今年は、何とか行きそうだとの予感がありました。
そしてどうやら、その音が表れてきたようです。人にお聴かせする音ではなく、自分のためにならす音楽です。上手く行けば行くほど、孤独な道を一人行かなくてはなりません。今回はどこまで行くか、最後まで頑張ってみようと思います。
出雲に神様が集まる神無月は、日本中の神様がいなくなります。もう、師走ですが、今晩の和室の神様は、出雲にご出張のようです。